ゆかいなゆかいなFFUG映像祭でみた映画の世界♪ その2

紫月いろは ドキュメンタリー映画『人間(じんかん)D59』   監督:無冠のTO

 

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自分で縛る「自縛」フェチの女優さんの「告白」ドキュメント映像も個性炸裂ってな感じでしたね!

 

病んでるって一言でいわれるような常識そのものみたいなやりとりでは分かってもらえない。その嘆きもあり、一方でそういう自分をどう「理解」するか、という悩みももちろんあるのですね。

 

もっとも「人様」の趣味は多種多様、僕には楽しくても他の人には?ってなことはいっぱいあるのですから、別に「緊縛」だけが小難しい理屈をもって「なぜ?」とか分かってもらいたい、とか思うこともないわけで好きなことやってるんだからそれでいいじゃん、っていえばそれまでなんだけどそれだけではここまで自分を「痛めつける」という激しい行為には単に趣味というだけではない深ーい人間の心の奥を照らす明かりがいる。

 

人間の感情は寄りかかりあいその中で生まれ、自分の言葉に対話が成り立つ他者がいなければならない。

ドSとかドMとかいっても、いいけど、僕はどちらかだけの人とかいない、というか相手がないと成立しない対の言葉である以上、お互いを必要としている、という意味では「対等」なんじゃないかな。

この縛りに関しては片側が著しく苦しい、抵抗不可の状態にされるから簡単にいかないんですが、

縛る側も真剣に取り組んでいく程に、単なるSという以上に相手へのなにか深い感情がわき上がりお互いの存在を強く意識してゆくのではないか?

 

業者用(?)ご自分仕入れの縄とのこと…。ツイッターより頂き画像。

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相対的に相手の存在があっての自分の存在があるという関係性はかなり「対等」にも近づいていく。

 

日常の景色にはこうした激しいパフォーマンスとはかけ離れているようでもどこか、人間の行為である以上は類似なことが含まれる。

ここまでの状況でなく日常ありがちな「対話の中のSとM的」。

 

例えば子どもがお母さんに甘えて「おもちゃ買ってー!」という

母親が「欲しがってばっかり!もうお母さんを困らせないで!」としかる。

こども「びえええええええええええん!」と泣く。

 

罵倒する母はSか? 怒鳴られて泣き出す受け身だから子どもはMか?

でもこれは

困らせてる(子)がS困って感情的になってしまった(母)Mということもできる

 

それが「態度」「感情」とかで瞬間、か、一定の時間とか期間とか優位な立ち位置からモノを言っているか?と仕分けするならば「どっちかな?」てなもんでしょう?その時にガツンと怒られた子どもは受け身。でも数年単位とか生活を通じてみると、子どもの進学費とかもろもろ、母親も父親もそのために自分の食うに足りる「以上」の労働とか、趣味には使えない時間が相対的に増えている。そりゃあ親だからそれも喜び、っていうけどエゴだけに生きられないことを「強いられ」ているといえないですか?

これってはたから見ればお互いを必要としている。そういうことじゃないすか?

違うかな、…まいっか

 

 

会場でのファッション ナイス腰縄!

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アダルトの子はなんとなく病んで?るといえなくもない人もいるでしょうか。もちろん職業がこうで、だから、ということはないわけで、どうもそういう手段で相手に応えてしまう「弱さ」みたいなのが根強くあるような、それは自分への強さ、怒りにも似た感情のほこさきはむごいことにまたしても「自分」に向けられてゆく。外に向かっていく(そうすべき!)ものが全て内に向かって突き刺さる。

 

そんな自分に「自己愛」が育つんだろうか

 

こうした「痛々しい」ほどの内省感、強いというか、強くならないと自分を確認できない、とでもいうように。

MでもSでも、互いに意図しなくても感情のエネルギーが物理世界でいうところの力のベクトルと同じようにいくつかの方角に分裂して動き続ける。

まるでコウモリが自分の位置と相手(獲物)との距離をつかむのに、視覚ではなくある種の電気信号を放ち、反射してくるそれを受信して、把握するように。

このような動きを人間ももちろん、物質の間というだけではなく、人間と人間という特殊な「関係性」のなかにおいても自分という人間は「なにもの」かという問いの信号を発信し続けその中でなんとなく、徐々に、変化しながら、他人との距離(これはコウモリの場合の「物理的」というより「社会的」な立ち位置に近い)を図りようやくと「自己像」のようなものを「形」づけることができるのではないでしょうか?

 

幼児期の体験が欲求不満的にぶり返すように成人後でも「わっ」とあふれ出てくる。抑えていたものが噴き出す、といったありがちな分析もあろうが、じつはそれが概念思考の以前の「感覚的」記憶にたよっていること。したがって成人が「頭」で考えるようになればその「感覚」的体験とは純粋なものではありえず、概念とか習慣とかが割り込んでなにかと「邪魔」をしてくる。

したがって追体験というのはむしろ現実の「人間関係」の中で探ってゆくことになる。

そうするしかない。

 

愛というのはより感覚的な「相互確認(必要?)」からわき出て来るような感情です、でもこの人は自分を親切に心配してくれる、だからこの人を「好きに」なろうって常識や理屈でもって考えればそう必ず「なれる」ってもんでもない。

それは色々な形があるとは思うが、ある人には自分を痛めつけるればいためつけるほどに上記のような関係性が成立するという信念が強く固着してしまっている。そこに相応に理解と肯定感をあたえることが他人の求められる役割となっている。

 

その時の相手も感情の暴発、吐露、激情といった状況に置かれているんじゃないか?

そう考えれば、先に言った「社会的」という以前の関係性。もっと「感覚的」というほうが近いかな。

 

 

母の体温を覚える子どもとか。

 

 

ちょっとかっこつけて言えば「自己意識は内側から外へと外側から内の働きかけのぶつかった地点において初めてカタチをなす」、だからヌカに釘、とか暖簾に腕押しとかしてもその対象の像は掴めない。

 

それはこのタイトルの示すように「人の間にいること」。

 

もし紫月さんももう縛りは「いらない」って感じるときがあればそれはなにかを「受け取った」後だろうし、あるいはずっと縛りの中で自分を見つめていくことも決して「悪くはない」のかもしれません。

実際人の前で自分をさらけ出すってキツイし、本当の表現者は血のにじむような思いがあると思います。実際に彼女の傷だらけの体が語ってるし、アートが最終的には多くの人に「あたえる」ことって分かる。

 

僕は基本文章写真からみのメディアを使って取材とかさせてもらったとして、いままでいろんな人が書いているような内容と違うものにするのはどんな切り口かな?という点ですね

精神性を描く、仮に僕が人の個性を描く場合はこの「縄」というアイテムではなく、同じような気持ちになる違うものはなにか?など違う観点。

縛りばっかりじゃカラダもたないよ

あ、自宅での吊りはお気をつけて♪状況がやばくても、人を呼べないと大変ですよー

 

おいらも多摩川の河川敷でストレッチしていて、柵にあしがひっかかってセルフ4の字固め状態の時はホントあせったよ。(知らんわ)

 

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どこに危険って転がっているかわからないからねー♪

 

goojob

 

 

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