ゆかいなゆかいな輸入DVDでみた映画の世界♪その4
さて、ようやくというか、ここのとこ急に「冬らしく」なりましたね、ここにきて。割と暖かい気温というこの冬ですが、反動ということか平年並みの気温になっていてもめちゃくちゃサミー気がする。
風邪やインフルにみなさん気をつけましょう!特に「インフル」には注意して「うがい」をバッチリかましましょう。
健康に気遣うことがきちんと出来てこそ仕事や遊びにも充実をもたらすというものです。仕事に気合いをいれるのも結構ですが、カラダを壊すようなことになってしまったら元も子もない。働く「機械」じゃないんですから人間は。これは自分はもちろん他人や家族、も同じように大事なこと。そこで「気遣い」のあるかないか?は天と地だ
ある経済学者が人間は1日4時間くらい働いてあとは「自由」に過ごすのがちょうどいいなんていってましたが、もしそれでいけるようになったらみなさんは1日の後の20時間をどう使いますか?
もしすること思いつかないからいっそ仕事やってたほうがいいと思う人、なかにはいるでしょうね。でもそんな発想になってしまう人は要注意です。それはなにも考えないまさに「機械人間」になりかかっています!
あまりにも勤勉だから。カラダが不自由で、満足に動けない、とか働けない人がいるとして、まるでそれじゃあ怠け者みたいじゃんか。
でも善良な市民の君はそういうことならば国とかから福祉の援助を受けて生活に困らないようにしなさい。と、ここまでは誰だって言えること、を当然のように言うのだろう。
でも、機械人間はそれ以上言葉がでない、詰まってしまう、そこで急にトイレに行きたくなったかのようにそわそわしはじめ、
「さあ、君はそれでいいだろ、問題は今日の青空のように晴れ渡りきれいさっぱり霧散した。じゃあ僕は仕事に戻らなきゃ!」
もっと「人間らしい」話はできませんか?
毎日むせ返る電車の揺れを味わうことがなくってもできる「仕事」がもっと社会にないのはなぜなんでしょう?もし自分の子どもに質問されたらどういいますか?せめて一回くらい子どもとかいいがちな「単純でも難しい」質問に真摯に答えてみたらどうですか?簡単にはいかない、実はシンプルな問いに満足に答えるほうが難しいことに気づく。自明の事、あたりまえ、としている中にまで意識を掘り下げなければ絶対に満足した答えは返せない。
どっかのオヤジがバーの片隅で上司のジャイアンカラオケの騒音に会話をじゃまされながら
「それが社会の厳しさよ(ボエーーー♪)甘くはないんだよ生きることは、がっはは(ボエーーー♪)」
と苦し紛れに、でもちょっと卑屈な態度の中にもプライドを加齢臭にまぶして匂わせながら答える…
そうですね、対して僕はこう言います。(基本的にこういう台詞、でええええええっきれー!だから)
「そこまで貧弱な発想しかでてこない、酒の飲み過ぎでどす黒い顔色しながら吐くゲップと大差ない台詞、その酸化しきったおまえの半分以上細胞が死滅した脳みそ、それこそが一番の「問題」だ!」
ってね。
(こらっ!ひでーな!)
家畜とまではいわないが、「仕事」という建前があれば少々後ろめたい営業でも「仕事ですから、生活がありますから」というそれだけ聞けば誰にも文句言えない決め台詞があるし、そこに権利を感じ取っているからおのれの行動をどうどうと肯定する。仕事として成立してる、だから金の流れに乗っかっているつまりは人に役立っている。職種は検討選択できるが自己主張はだいたいその辺が限界。
自由というのは生きる自由→金稼ぐ→生き方を選ぶ、みたいに先立つモノがあってから。法人資本主義の経済の関係性が大前提なのは現代社会では当然で、法人って擬似的人格が人間より前に出る、そこで「自由」たろうとすれば、会社に楯突くどころか社会に楯突かなきゃならなくなってくる(たぶん)。
そうなればみなさんに
「あっ!潜在的テロリストだやまもとたろーだ」って指さされる。あほか。
そんな扱い受けるくらいなら、自由いりませんってね。
真ん中あたりのゾーンがないのは日本の特徴。どっちにしても息が詰まる。世の中には白と黒しか色がないのかい?無限に広がりを見せるグレー域があるからね。そこに社会の器が計られるのす。
ということで本題に関係がないまま随分と打ち込んでしまったのですが、、今の世界の状況が漫然とした不安をみなさんの間に霧のように広がりを見せはじめる。社会問題や最近の時勢に感じることがあれば、
かといって抽象的な理論をいきなりぶったところで、
アランロブグリエ監督の囚われの美女は悟性という過去に記憶したことを
たとえ何百年かけて得たものであっても。
今は具体的に個々人が生活の中でどう「頑張る」かというテーマをうんと掘り下げて、抽象世界にまでいって顕微鏡で観察してみるというのも遠いようであんがい近くに不安の正体とかが感覚的になんとなく捉える物質界のなかにかなり有効な「答え」が隠れていることを発見するかも?
でもって多少強引に人間の理性がどういう構造で、そこに実は自明としていることにあやしい部分があって問題はそこから既に始まってる?としたら具体的な事象の前に前提としてそこに注目しないと解決なんかしない。
一つの不安を解消したら、今度はあたらしい不安材料が増えちゃってる、こういう輪廻から抜けられないのは不安の「正体」を見ないですまそうとするからです。
『囚われの美女』(La Belle Captive 1983年)
アラン・ロブ=グリエ 作品
さて小難しい話は嫌いな僕ですが、触れておくと大分わかりがいいと思いますので下の絵をまずは簡単に説明。有名なんで知ってる人多いでしょうが、シュールレアリスム運動のマグリットの絵。形而上学というこれまでの原理原則、現実に置いて捉えうる現象と物質世界における事実と経験を超え出でた世界を真実在とし、
それに対してシュールレアリスムは理性を力の元とはとらずに私たちは、もっと表面ではなく「無意識」という世界に様々な「衝動」を持っていて、現実的な思考や行動はそうした意識の水面下にモチベーションが一見隠れている。だからその見えない「部分」に注目してきた。
この映画はそうした立ち位置で、制作され、特に意識と事物の間はどうした構造であるのか?普通に起承転結の物語というお約束、そのリアリティを「越えて」みる試み、というか。
さて、ロブグリエ監督は作家でもあるんですが、ヌーボーロマン作家。
では最初に言った絵の方からいきましょう。ここにある2枚の絵、なんか不思議。
ここに書かれているのは
「上、海岸におかれたキャンパスと横にたき火」
「下、キスする二人、何故かシーツを被った状態で」
上も下も人間の頭の中で、視覚が捉える景色をどう解釈して、どういう意味をもたらすか、という「説明」的な要素がある。
上の海岸におかれたキャンパスは生地を張らないでむこう側が
単に見えている?それとも同じ連続する海原の絵を書き込んでいる?右側のたき火の炎がキャンパスに明るい黄色みを反射させている、つまり上手な絵が描かれているのがホント。その反射がないとしたら視覚はどちらとも言えない状況になり、もし額が透明の素材で作っているとすればますますリアルに水平線までの海は奥行きをもつのと同じように絵の中の海も奥行きがある、と「思考」する。しかし絵の海はリアルにはその海原の大きな広がりを区切って「イメージ」写真としてこれが「海」であると規定することで「意味」つけられる。
下は行動の「意味」つけとしては物と物との「人間の皮膚の一部分」どうしが「触れる」という運動に
愛情の表現、相手への好意、など。布が挟んであるのは「物と物とが触れる」こととキスという名辞を意味とともに付与することに「直接」繋がらない「飛躍」がある、という、いわばキスの概念自体は再現することが不可能である、という説明。
さて、以上の絵画に触れてから、
囚われの美女はマグリットの絵のことで最初の海岸の絵の「題名」ということでもあります。
従ってこの絵を基本映像表現した「映画」となります。
ヌーボーロマンともいわれる新文学の形式。これは時間軸とか論理性とか因果関係とか、そうした従来の基本的な物語の構造を無視してしまう、いうのは簡単だが大抵こういう時に起こる現象は「意味が分からん!この映画」です。
そしてこの囚われの美女もそうなることが確実ですね。
上の要素がないと、前後関係もストーリーも壊れているのですからそれも当然。
そんななかに何を「感じ取る」のか…。
私たちは上の絵の中で言うキャンバスの中の海を見ている。外側の実物としての海は広がり深まる「得体の知れない」もの
絵の中にある海は変化したり、満ち引きもなければ、波の高低も変化がない。
物語はこの絵の中で展開して終わる。しかし、この映画では主人公の男性は実物額の中の虚構に生きる。周囲の人やものは額の外の事物世界。
見ているこちらはこの男性の「理性」に同一している意識。この男性が「理解出来ない」と思えば見ているこちらも?となっている、とみて間違いない
でもリアルなのは額の外側の海、です。
だから理性を裏切る展開はリアルの世界ではしごく当然のこと。
私たちは絵の海を生きて、絵の海こそ海と思い、そこに例えば別の概念「船」を持って来て「浮かべる」そういう行為を組み立てることで目的を設定する。
囚われの美女はイメージが張りついたような「嘘っぽい」映像が続出する。
話はある諜報員の男が権力者の「秘密」を握っている政敵に雇われている女の指令でその権力者を「脅す」か「脅迫」かするため、証拠の写真を見せにいく、という流れ。
しかしその展開中に死んだはずの女や、現実感のない正装した紳士達、キモチワルい刑事などが現れる。全てが繋がるようで繋がらないような時系列も混乱し、錯綜していく。唯一主人公の男が見ている側と同じ「普通」の世界にいることに共感を持つしか無い。
バイクにまたがって疾走する女性諜報員
この絵からもどことなく「白々しい」感じが見えるがこのバイク、全く振動していない。
部屋の中になぜかバイクが止められている
これ時々ムードを出す為にかヘッドライトが点灯する
はい、右の人…ぶきみです!
「ふっふふ何もかもお見通しなんよあたしは…デカざんすから」
という刑事役の方。我慢出来ずに似顔絵かいた
くっくく
いつも訳知り顔でにやつく。「あぶないデカ」
文学界でのシュールレアリスム運動→映像表現。
(それを踏まえていないと頭の中が???だらけとなりますよ…必ず…、くっくく(半笑い))
リアルとか非リアルとかいう言葉も流行っていますが、ある意味私たちはみんな「非リアル」を生きている。
実際に社会で活躍したり、有名で金持ちで、多くの人に慕われ頼られ、そういう人でも、パソコンの前で一日過ごしちゃうような方でもこの「非リアル」という枠組みからは決して逃れてはいない。
では真にリアルと呼ぶにふさわしい世界とは、どんな世界なんでしょうか?
そこで「生きてゆける」んでしょうか?
人間には生きることに一応「意味」を見いだして「目標」みたいなものがあって…それでこそ充実ライフとかいう意見も多い、でも本当に「それだけ」?
実はそうしたいわば「普通」に真であると思えるような価値観、それを剥ぎ取って剥ぎ取って剥ぎ取って…そのタマネギの芯みたいな姿になった時、存在そのものの意味や個人と世界、他人と自分、事物同士の関係性、…そういうものが感覚されてゆく。
そこにいたる為には例えばこうした「不思議」な映画から感じることをよーく見極めてみてください。
不思議なことは単に不思議ではない、輝きを持った宝石のように妖しい魅力を持っているはず。
時間が失われたような
全てが空々しい虚構の産物のような、
それでいて妙に心を惹かれるような
夢とも現実ともいえないような
終わりと始まりがないような
不安でもあるが、その絵画的で抽象的なイメージが雑多な要素を削ぎ落している点が、
心を落ち着かせるような…
なんとなく主人公以外の人物が「キモチワルい」ような。
とにかく不思議な映画。
一つの逸話というか、ある宗教に入った女性の話が動画にあがっていてそこで人生の転機になった、こんなことを語っていた。ここにもリアルなようでリアルじゃない日常の一端がみえる
ある日、子どもがお母さんに問う
子:「ねえ、どうして勉強をしなきゃならないの?」
母:「それはね、良い学校に入るためよ」
子:「どうして良い学校に入らなきゃならないの?」
母:「それはね、良い会社に入るためよ」
子:「ねえ、どうして良い会社に入らなきゃならないの?」
母:「それはね、生活が豊かになるためよ」
……このように問答が繰り返され、最後にお母さんは答えに窮して、
母:「いいお墓に入るためよ!」
子:「ふうん、ならいいや、僕は勉強しないよ、お墓に興味ないから」
これは、日頃のあらゆる問答が、今からちょっと先の未来に目標を置いて、少しづつ進んでいるということでやっている、これではいくら繰り返してもちっとも真の答えがでてこない。
最後にフェチという言葉、かなり広義に使用されますね。
例えば光沢のあるものとか多い気がします(ゴム、金属、ウェット&メッシー)
光沢のあるものに何故か心が魅了される、これはその輝きというものにはある完成された、物質界のリアルが垣間見えると心が「直感」する。
実はそこにリアル世界への「入り口」があるんです。
とまあ、綺麗に言ったところで今回はこのへんで。
まったねー♪